親と子どもと上司と部下
 
−大原部長−
 2000/11/14(火)発行分

 子育て(3才と1才)をしていると、人間の持つ本来の迫力を子どもから学ぶことができる。
 ちなみに、わたしの女房は証券会社勤務で朝7時には家を出てしまう。取り残されたわたしと2人の男児は、毎朝3人で朝食をとり、それから散歩、最後に保育園に登園する。

 さて、我が家はリビングルーム重視で、25畳のスペースを割いたため、わたしは自分の書斎を諦めた。そのリビング一杯に用紙を広げ、赤・青・緑の3色の絵の具を渡し、遊びが始まる。3才が紫色を偶然発見し、絶叫する。
 1才は、足をブラシ代わりに足跡で描く。水はぶちまける。寝転がる。そして、食事。1才はすでにスプーンとフォークと箸で食べたがる。結果は、食器容器の10%が体内に入るのみ。のこり90%は足元へ残飯として副産物と化す。しかし、基本的に干渉しない。
 できないことがあると、非常に悔しがる。それは、「切れる」というのと違っている。とても悔しがるのである。たとえば、うちの3才は時計をドライバーで解体してしまう。1才も真似をしようとドライバーを握るがまわし方も逆で安定しない。すると癇癪を起す。それでいいと思っている。1才は最近、プラレール程度は分解できるようになった。モータやギヤを見て「あれ!あれ!」といっている。
 基本的に、自分で発見する体験の積み重ねが知恵であるように思う。3才は、いつも、どうしてそうなるのか考えている。一日300回は「なんで?」と発している。

 教育というものはやっかいだ。あるとき、3才がようやく時計の針の位置に興味をしめした。「いま11時?」とか推量でわたしに聞いてくる。わたしは、「しめた!針をぐるぐる回しながら時間を学ぶ教材を本屋で買って教え込もう!」と思った。あるとき3才に本屋で聞いた。「この針が動く時計の本買って時間を覚えようか?」
 すると、3才は言った。「いやだ。つまらない。」
  …わたしは、自らの幼さを嘆いた。確かに。時計の針をぐるぐる回して今何時なんてやったって面白くないに決まっている。子どもは基本的に面白いものを嗅覚で選び取る。(それにしても、近所の若いお母さんたちの干渉ぶりは異常だ。子ども同士の喧嘩でさえ始まらない。喧嘩させないのだ。喧嘩することを許さない。やられる方もやられることからでしか学べない重要なプロセスがある。究極の事なかれ主義者なのだ。子どもに無理やり一方的に我慢を強いる。塾やお稽古を強いる。暗記を強制する。しつけが厳しい。しつけ、暗記、我慢。これらを繰り返すことで、一刻一刻と好奇心の根が枯れて行く。子どものもつ本来の迫力を感じることなく。それにしても、親たちは、痛みを感じないのだろうか?近年は不感症女が多いのだろうか?)

 さて、経営者のつとめのひとつは、組織の活性化であろう。言われたことしかできない部下は、いつも言われたこと以下しかできないに違いない。
 言われたことだけやっていればよいという教育を受けてきたものは、言われたことさえもできないに違いない。子どもから好奇心が湧き出るように、組織も末端から柔軟な発想がみなぎるようでなくては、国際競争をよもや戦えまい。
 できないとわかっていてもやらせる意味は、いまできないが、必ず近い将来できるからだ。子どもがドライバーで時計をバラバラにするときの気迫は、大人顔負けである。絶対やってやるという表情で近づきがたい。1才が箸でごはんを10回に1度程度は、うまく運ぶことができる。しかし、彼は10回とも上手くやろうと必死である。失敗するとは思っていない。

 企業を見るとき、上司の裁量が非常に参考になる。責任がとれる上司のみが部下を持つべきだ。上司には、下にこぼれてもよいように新聞紙を敷いてやり、食後はいっしょに片付けてあげるような思いやりが大切。部下が自分の頭できっちり考え、出来のよいリポートを書いたときは、上司冥利につきる。
 子育てといっても、一度に10人できるわけでない。やはり、数人が限界であろう。だから、組織も少人数がいいに決まっている。官僚主義からは創造的なものは、なにも生まれないに決まっているではないか!

 会社訪問して、建物の中に踏み入れたときの雰囲気で、よい組織かどうかはわかってしまう。躍動感があるかどうか。その一点につきる。(大原)

 

 


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